憂き世話

あんたの弾くピアノが好きだった。普段は不器用な癖に、ピアノの鍵盤を叩くその時だけは、普段からは想像もできないほどの滑らかな運指。繊細なタッチで、情緒的な音を鳴らす。器用ですね、と僕が言ったら、あんたは「何その感想、変なの。普通はすごいですねって言うんだよ」と笑った。

 

僕はあんたのその才能に嫉妬していた。僕には何もないから、あんたのその人並外れた音感と表現力を目の当たりにして、あぁこれが本物か、と絶望したんだ。だからこそ、ずっとあんたのピアノを聴いていたかったのだけれど、そう上手くはいかないのが人生らしい。僕らは知らない間に大人になって、あんたはピアノを弾くのをやめた。仕事ばかりの生活が僕らの日常になった。

 

あんたは村上春樹が好きだった。所謂、ハルキスト、だった。僕は村上龍の方が好きだ。あんたがいつも読んでいるから、僕は何度か村上春樹を読んでみたけれど、やっぱりあまりしっくりこなかった。けれど、思っていたより読みやすいのだな、と思った。ひとつの発見だった。あんたと出会っていなければ、村上春樹が案外読みやすいのだと気づくことはなかっただろう。

 

「家族みたいにしか思えなくなった」

あんたに言われて、僕は、それじゃダメなのか、と言おうか迷ったけれど、やめた。ダメだから、こうやって、あんたは涙を流しながら話しているし、そんなあんたを僕はただ見つめることしかできないんだろう。

 

ワガママも夜遊びも浮気も全部許せてしまったのが、僕の敗因であり、僕らの敗因だったのだろう。

だからあんたは罪悪感とか不信感にああして泣いていたのだし、僕はあんたを許していたのに許し切れなくて、涙も流せなかったのだろう。恋愛は、家族ごっこではない。僕が許していたのは、結局のところ、嫌われたくないから、とか、機嫌を損ねたくないから、とか、自分のためのエゴの押し付けで、許しているフリをしているだけで、心の奥底ではやはり許し切れていなかったのだろう。あんたはあほだけど感受性だけは豊かだから、それをなんとなく察していたのだろう。だから、何度も確認するように「なんで私のことそんなに好きなの」と尋ねてきていたのかもしれない。分からないけれど。

 

あんたは未だに、時たま僕に電話を架けてくる。僕は毎回、電話に出る。遠慮のない話ぶりは相変わらずで、僕は笑って誤魔化しながら少し泣くこともある。あんたの人生が続いていることが嬉しくも寂しくもある。いまあんたの隣に知らない男がいることとか、あんたの口から止めどなく吐き出されるその男の良いところや悪いところとか、あんたそのものとか、全部、もう僕には関係がないのだ。だから、僕は笑う。ただ、ただ、笑う。

 

あんたが「死にたい」と言う。僕は、なんとかなるよ、と言う。僕はあんたを許し続けるし、でもやっぱり許せないまま、だらだらとあんたと話してしまう。