憂き世話

河蜻蛉が、舟人が櫂を漕ぐような動きで羽を振り、初夏の川縁の空中を泳いでいる。緑掛かった虹色の体躯に四枚、漆黒の羽。夏の虫の体色に虹色が多いのには何か理由があるのだろうか。金蚉、黄金虫、玉虫、黒蝿、河蜻蛉。時に、日の光は、彼らの表面を滑り、鋭く輝いて、視界を刺す。

 

ある夏の日。視線の先で夏風に揺れる薄青色のワンピース。ビーチサンダルの踵の内側が妙に削れていて、貴女の歩き方の癖を可視化していた。入道雲が浮かぶ青空の下、地上に揺れるもうひとつの青色が、僕の感覚の全てを捕まえて離さなかった。僕は、溺れるように、いや、実際に溺れていたのだろう、しかし、その川面に飛び込んだことを、後悔していなかった。緩やかな坂道を登る。蝉の声が途切れることのない川の流れのように、続く。

「夕立が、くるね」

貴女の唇が言葉を落とす。僕は、夕立の気配を感じることができない。それどころか、その日は晴天で、まだ時刻は午後の十四時を回ったばかりだった。

「夕立がくるよ」

こちらを振り向いて彼女が微笑んだ。当然のことだが、用水路の水流は止まらない。誰かが堰き止めでもしない限りは。聴覚が捉える夏の音の波が全身を緩々と浸していく。錆びの浮いた軽トラックが二人の横を徐行もせずに通り過ぎていった。

水音が僕の頬に。そこに少しの水分が付着したのが分かる。頬が受ける生温い風だけが心無しか冷たく感じる。

「まだ昼の二時だよ」

僕はなんとか言葉を吐き出した。不器用な発音で。用水路を流れる水と、血管を流れる血液と、どちらの流れが速いのだろうか。なぜ水は冷たいのに、血液は温かいのだろう。

「夕立がくる前に、ね」

そこから先は語ることができない。

 

夏の匂い。

それは、燃え尽きた手持ち花火の火薬の匂い、湿ったTシャツの繊維の中で洗剤と汗が混ざり合った匂い、髪が日光に焼ける匂い、ぬるくなったペットボトルの清涼飲料水の匂い、混ざり合った唾液の匂い、貴女の体臭。

 

空はずっと青いわけではない。突然の雷に身体を震わせる貴女を思い出すと、少し可笑しな心待ちになる。いつまで経っても。社の屋根を無数の雨粒が叩く音。それは物体と物体がぶつかり合う音で、僕は用水路の水流を想起し、あれが、空から落ちてくるというそれだけで、こんなに硬い音を発することもできるだと感心する。あれは物質なのだ、と。僕も、貴女も、物質なのか。粘膜から滲み出す液体と、その容れ物である個体と、どちらも僕で、貴女なのだろう。空はずっと青いわけではない。空は、もう、白く歪んで、無数の水滴を僕たちに投げつけるだけだった。

 

蜩が鳴き始めた。雨は止んだが、僕たちは全身雨に濡れていた。嫌に蜜柑色をした夕陽が空を染めている。空はあと数時間は青くならないだろう。貴女の背中を眺めながら、ふと視線を上にやると、こんな時間に珍しい、虹が掛かっていた。アーチの下で貴女の背中が揺れる。濡れて少し色を濃くした薄青色のワンピースが肌に張り付いて、貴女の身体の輪郭をなぞっている。ビーチサンダルの踵の内側が妙に削れていて、貴女の歩き方の癖を可視化していた。