水底の猫 : 八

 

 智一が目を覚ますと、もう太陽は真上に昇っていた。昨日の夜は、なかなか眠れずに居間で見てもいないテレビをつけて重たい頭を床に転がしていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。硬い床で寝ていたせいで首が鈍く痛む。時計を見ると一一時半を回ったところだった。母も父も二階の部屋にいるのか姿が見えない。

 もんぺを履いた祖母が「ああ、暑い暑い、お茶入れてえな」と言いながら、居間へ入って来る。智一は、食器棚へ向かい、ガラス製の細長いグラスを取り出して、食器棚の隣に立っている冷蔵庫の扉を開く。冷気が頬を撫でる。昨日の夜にヤカンで沸かした麦茶がペットボトルに移し替えてあった。炭酸飲料のペットボトルに移し替えてあったので、普通のものより柔らかく、少しでも力を入れて握るとすぐにへこんで、その圧力で中身が押し出されてしまうので、グラスに注ぐ際に少しこぼしてしまった。グラスを、椅子に座って首にかけた安っぽいタオルで顔を擦っている祖母の前に置く。祖母がグラスを傾けて茶色く透き通った液体を一気に飲み干す。首の弛んだ皮の奥で、喉が音を鳴らして液体を通過させる。

「ああ、生き返った。ありがとう。それでな智くん、悪いけど、水やりをな、手伝ってほしいだ。ひとりでやっとったけど、暑くていけりゃあせんわ。あと半分くらい残っとるけ、悪いけど、手伝ってくれえな」

 祖母は毎日家の裏の畑に出ては、野菜の状態の確認や、収穫、草取りなどの多くの世話をこなしている。畑で育てた野菜は、特にどこかに売るわけでもなく、一家の食事に使うか、近所に配って回るかのどちらかの方法で消費される。

 雨蛙の背のような緑色をしたジョウロに水を溜めて、智一は畑の土を踏む。トマトやゴーヤ、オクラ、南瓜と言った夏野菜が畝で区切られたそれぞれの陣地に整然と並び、太陽に向かって瑞々しい緑の葉を誇らしげに伸ばしている。茄子の茎は、ほとんど黒と言っても良いような深い紫色をしている。それは静脈のようにも見えた。静脈の先に付く葉だけが、無垢で鮮やかな黄緑色を風にそよがせていた。根元の土に智一が雨を降らすと、土は濡れて色を濃くした。土が吸収し切れなかった水が幾本かの筋になって畝の小さな斜面を滑り落ちていった。

 水やりを終えてジョウロをぶらぶらと振りながら物置小屋へ向かって歩いていると、後ろから祖母の声が聞こえた。

「ありがとうなあ、ほれ、美味しそうなのがいっぱいあったわ」

 祖母は胡瓜四本とトマト三個を両腕で抱えていた。トマトのひとつが腕の上から転がり落ちてしまいそうになっていたので、智一は祖母の元へ歩いていき、ジョウロを持っていない方の手に燃えるような赤色をしたトマトを受け取る。作り物のようだが蔕の周りにだけ初心な黄緑が残っているので、これはれっきとした植物であることがわかる。

「それ、食べてもいいで。薬使ってないけ、洗わんでも食べれるで」

 祖母がそう言うので遠慮なく齧ってみると、赤い実は酸味のある飛沫を智一の口内に飛ばした。どろどろとしたゼリー状のものに包まれた種がいくつも口の中に流れ込む。そこには生き物を食べているのだという生々しい感覚があったが、それは不快な生々しさではなく、充実感に近かった。新鮮なものとはこのような感覚を与えてくれるもののことを言うのだと智一は思う。

 居間に戻ると母が鼻の頭に汗の粒を乗せて昼食の素麺を茹でていた。食卓の上には細く切られたハムや大葉、玉子焼き、葱が一枚の大皿に広げられている。その隣に麺つゆの瓶と麺つゆを割るための水が入れられた大きめのグラスが並んで立ち、チューブの生姜が転がっていた。智一が食卓の椅子に座って、横の椅子の上に投げ捨てられるように置いてあった市報を何気なく捲っていると、父が居間へ入って来て「素麺か、良いな」とあまり良いとも思っていないような仏頂面で呟いた。大皿に祖母が持ち帰ってきた胡瓜を輪切りにしたものが加えられ、家族四人が食卓を囲む。素麺が薬味類の乗った大皿とは別の大皿に一玉ずつ、とぐろを巻いた蛇を想起させる形で盛り付けられている。少しずつ食べることができて量を調節しやすいという理由から母は毎回このようにする。素麺は母が鍋から立ち上る蒸気の熱さに耐えられずに早く湯から上げたのか、少し芯が残っていてあまり美味しくなかった。

「今日の夕方、送り火焚くらしいけ、五時には家におるようにしてな、精霊棚も流さないけんしな」

 母が美味しくない素麺を口に運びながら智一に伝えた。この辺りでは、盆を終える八月一五日に精霊棚を川へ流す風習がある。精霊棚は先祖を送り出す舟の役割を担っているらしい。

 夕方まで暇なので、智一は時間を潰すために祖父の書斎だった部屋から小説を持ち出して読むことにする。

 今では物置部屋のように使われていている書斎には買い替えて使わなくなった古い家具や、母の冬物の服が一杯に詰められた段ボールなどが所狭しと折り重なっている。祖父の大きな本棚は今でも手付かずのまま残してあり、窓と向かい合うようにして立っている。カーテンレールに黄ばんだレースカーテンしか掛かっていないせいで、窓から差し込んでくる日光を遮ることができず、ほとんどの本の背表紙が日に焼けて色が変わってしまっている。適当に面白そうなものを数冊選んで取り出し、居間へ戻る。本を開くと懐かしい匂いがした。

 三冊目を読んでいるときに玄関の方から祖母が呼ぶ声が聞こえた。時計を見ると午後五時二十分に差し掛かるところだった。集中していて気づかなかったが、そういえば、さっき五時を知らせるサイレンが鳴っていたような気がする。

 玄関を出ると祖母が苧殻の山を作っていた。父が精霊棚を手に持って立っている。母は、父が手に持った精霊棚の上に茄子の牛と胡瓜の馬を、角度を気にしながら几帳面に並べている。

「ばあさんが行くと川に落ちそうだし、わしは腰が痛いけ、お前が流しに行けえや」

 父が智一に精霊棚を渡しながら言った。腰が痛いというのはたぶん嘘で、面倒くさいだけなのではないか、と智一は思ったが口には出さなかった。昔は父が川原まで精霊棚を運んでいたが、智一が中学に入ったあたりから父は何かと理由をつけて智一に精霊棚を運ばせるようになった。父ももう若くないので危険なことはできるだけしたくないのだろう。智一は毎年斜面を下って慣れてきてはいるが、渦巻く川面を見るとやはりまだ少しだけ恐怖を感じる。

 川原を目指して斜面を下る。斜面の上から母が「気をつけてな」と智一に声をかける。それを聞いて父は「若くて身軽だし心配ないわいや」と母に返す。

 足場を探し、ゆっくりと歩を進めながら前方をよく見ると、川原に向かって一筋の獣道のようなものができている。釣り人がつくったのだろう。この川ではウグイやヤマメが釣れるので、たまにそれを目当てに釣りに来ている人を見かけることがある。釣りをするためには一度この家の庭を通り抜ける必要があり、釣り人たちが敷地内に勝手に入ることに対して、祖母が不満げに話すのを何度か聞かされたことがある。道ができているのならそこを歩けばある程度は安全に下りられそうだった。雑草が智一の脚をくすぐる。道ができているとはいえ、やはり足場は岩なのでぼこぼことしていてあまり良くない。精霊棚の上には、さっき母が丁寧に乗せた茄子の牛と胡瓜の馬が同じ方向を向いて立っていて、細くて小さな蝋燭が棚の中心で火を揺らしている。先祖を送り出す舟にしては簡素過ぎる気もするが、こういうものなのだろう。蝋燭の火は弱々しく、少しでも風が吹けば消えてしまいそうだった。

 視線を下げると緑色をした水面が蠢いている。

 智一は緑色の水の中に一匹の魚が泳いでいることに気づいた。魚が水面に口を突き出して、空気を食べるような格好をする。智一はその黒い魚影から目が離せなかった。幼い頃に朗と見た、名前も知らないあの黒い魚だった。

 不意に、足が拳ほどの大きさの石を踏む。身体が傾いて、精霊棚が手から離れる。茄子の牛と胡瓜の馬が斜面を駆け抜けていく。蝋燭の火が消える。腕を岩肌に強打した。鈍い痛みが走る。皮膚の表面を生温かい血が滑っていく感覚。水面が近付いてくる。水面から突き出された黒くぬめった口が智一を呼んでいる。後ろで母の短い悲鳴が聞こえる。

 渦巻いた流れが智一を飲み込んだ。