水底の猫 : 八

智一が目を覚ますと、もう太陽は真上に昇っていた。昨日の夜は、なかなか眠れずに居間で見てもいないテレビをつけて重たい頭を床に転がしていたのだが、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。硬い床で寝ていたせいで首が鈍く痛む。時計を見ると一一時半を…

水底の猫 : 七

今日はもうないのだろう、と思っていた葉月からの着信を携帯電話が知らせたのは午後九時を少し過ぎた頃だった。智一はいつも通り切断ボタンを押す。縁側に向かい、ビーチサンダルに足を通したところで二回目の電話がかかってきた。二回目がかかってくること…

水底の猫 : 六

その日、智一は柄の黄色い虫取り網と青い蓋のプラスチックの水槽を持って朗の家へ向かっていた。水槽の蓋には覗き窓のようなものがついていて、そこがパカパカと開くようになっている。 「智くん、虫を捕まえに行くだか」 佐藤のおばさんが玄関前の植木鉢に…

水底の猫 : 五

盆の二日目は「墓参りに行くけ、早く起きんさい」という母の大声に眠りを遮られて始まった。油断すると張り付いてしまいそうな瞼をこじ開けて時計を確認すると、まだ朝の八時だった。 持田家の墓地は集落の外れの山の斜面に沿って作られている。この集落には…

水底の猫 : 四

夏だというのに母が浴槽に張る湯はひどく熱い。冬にこの温度ならば丁度良い塩梅であるのかもしれないが、夏に浸かるには酷な温度である。智一が熱くて入れないと言っても、母は「風呂は熱くないと入った気がせんけなあ」と聞く耳を持たない。小さな頃は我慢…

水底の猫 : 三

家へ帰ると祖母が玄関の前で迎え火の準備をしていた。 「あら、智くん、おかえり」 左腕で苧殻の束を抱え、右手に火箸を持った祖母が智一に気付いて、にこりと笑いかける。 「迎え火を焚くけ、お父さんとお母さんを呼んできてえな」 智一の家では、毎年、盆…

水底の猫 : 二

「なんでいつも電話に出てくれんの?」 鳥居をくぐり、苔むした長い石段を登り終えると、蝉の鳴き声に割り込む葉月の不機嫌そうな声が耳に入る。葉月は社の濡れ縁に腰掛けて、両足をぶらぶらと揺すっていた。夏の日差しは人間を焼き尽くそうと必死なのに、葉…

水底の猫 : 一

蝉の声が熱い大気を揺らして、陽炎を生む。枝木の影が、群れたまま干からびた蚯蚓のように、縁側の床に伸びている。流水が岩に激しくぶつかって割れる音が、日差しに焼かれた地表に染み込んでいく。切るのが面倒で伸ばしっ放しになっている前髪が、汗で湿っ…

2021/3/28 : 春

地獄みたいな日々を必死に泳いでいる。 でも、この地獄みたいな日々の作者はきっと僕なので自己責任だろう。僕は時間という食糧だけを与えられているだけで、自分の脳味噌で生み出された咀嚼の仕方しかできないのだから。 「おれはこういう人間だ」 某ビッグ…

憂き世話

どうしようもなくなったときには文章を書く。思ったことをただただ形にする作業。僕の脳から生み出された感情がフニャフニャとした線の集合体となり、意味を含んで他人の脳内に流れ込み他人の感情を揺らす。僕の脳とこれを読んでいる人の脳が、ある意味繋が…

憂き世話

父さんはいつも私に言った。 「お前は、母さんによく似てるな」 母さんが死んで、父さんとふたりで暮らし始めてからというもの、周りに頼れる人もいない私の生活は父さんと二人で閉じていた。 幼稚園の迎えはいつも七時を過ぎてからだった。五時を過ぎると先…

2021/01/18 : 冬のある日のこと

週に二度、顔を合わせていた人が死んだ。 顔を合わせると言っても、普段は特に話をするわけでもなく、用事がある時に少しだけ話すような、本当に顔を合わせるだけの関係だったのだけれど、それでも僕はすごくショックを受けてしまって今日は脳味噌が使い物に…

憂き世話

「あなたのその薄くて可愛らしい上唇を、私のこの少し黄ばんだ、でも、矯正治療をしたおかげで綺麗に並んだ歯で、ぱくり、と噛む。そして、噛み締める。あなたの体温が舌先に触れる。ぬるい。私は更に咬筋に力を込める。ブチ、という不快な音が口の中、いい…

2017/05/27 : 回想 - ある人に向けた

恋人はもういない 時代はもどらないよね タイムマシーンはこない そんな歌をうたってた どこいったの ※Chara「タイムマシーン」より _______________________________ 綺麗なものは、綺麗だからこそ、汚れてしまえば目立つ。白い紙に点を描いたら、人間は、…

2017/11/28 : 回想

埋火を聴くと、去年の冬を思い出す。 冬の冷たい空気が鼻腔を抜けていくあの感じ。あれを冬の匂いっていうのかもしれないなぁ、と思う。あの感覚を比喩的に言うのならば、たしかに「匂い」という言葉はしっくりくる。埋火を聴くとき、春でも夏でも秋でも関係…

2020/11/08

読みかけの本が積み重なっている。これらの内の幾冊を読み終えることができるのだろうか。量を読まないくせに、読みたい、と一瞬でも思ってしまった本は逡巡することもなく購入してしまうので、際限なく冊数だけが増え続けていて、部屋の中、至る所に書物が…

2020/10/31

ふらふらと街を歩いていたら、二ヶ月と少し前に別れた女の子からLINE電話がかかってきていて、常日頃マナーモードにしている僕はそれに気付かず、スマホをポケットから取り出したときには、画面に表示される通知のその時刻から三十分ほど経過してしまってい…

憂き世話

集落の中心を焼鳥の串の如く真っ直ぐに抜ける市道脇の、人ひとりがやっと歩ける程度の幅しかない歩道を歩いていると、いつもの夜には決して聴こえることのない賑やかな話し声が、幾戸もの民家の窓から漏れ聞こえてくる。 盆の連休の間、集落には人間の気配が…

憂き世話

六月二日、曇り 寝室の電灯はずいぶん前に力尽きてしまって、しかし、寝室なので特に不便も感じず、長い間、取り替えずに放置している。寝るだけの部屋に、灯りはいらない。暗い部屋の中、布団にくるまって色々なことを考えるのが日課になってから何年が経っ…

2020/07/27:寝る前

連休が終わった。 それだけで人々は嘆くことができる。100人いれば98人は憂鬱な気分になる。憂鬱な気分になって、最悪の場合、死に至ることもある。連休は害悪だ。 いや、労働があるから休日があるわけで、休日の最上級が連休で、つまり、労働が悪い。労働は…

成人男性の握り拳ほどの大きさの泡の塊が、池の上に枝を投げるいくつかの樹の、その枝に点々とぶら下がっている。葉を飲み込むような恰好で枝に付いているものもあれば、竹輪のように枝を芯にして付いているものもある。全部で八個あった。ここから無数の命…

2020-07-04:抜歯

親知らずを抜いた。 朝七時五十分に起きて、歯を磨く。一時間と少し経ったら、他人に口の中を見せないといけないので念入りに。 __________________________________________ 先日、たぶん十年ぶりくらいに歯医者に行った。左上の親知らずが鈍痛を訴え始めた…

憂き世話

「人生は単なる付属品だ」 とあなたは言った。 「生まれたというその事実だけが、僕たちが生きている唯一の理由で、人生がああだこうだなんて後付けの娯楽みたいなもんなんだよ」 あなたの人生の一部にでもこうやって私が存在している。それも、あなたにとっ…

2020/06/15

久しぶりに日記を書く。 「日記ってのは毎日書くから日記なんだ」と、小学四年生の時の担任が言っていた。体育の時間に、鍛え上げた筋肉を見せつけるために服を捲ってキャーキャー言われてたあの先生(キャーキャーはもちろん黄色い声なんかではなくて、ただ…

雨が降り出した。私は室内にいる。だから濡れない。当然のことだが、その当然が当然であることが、なんとなく恐ろしく感じられる瞬間がある。 狭い部屋のベッドの上で、ひとりでいるのに服を着ていることを、ふと不思議に思う。着飾る必要もないし、寒いわけ…

憂き世話

普段は家にこもっていたいと思っているくせに、いざ「外に出るな」と言われると、なぜだか無性に外に出たくなるのは、私だけではないはずだ。人間は誰しも心の中に天邪鬼を飼っている。心の中の天邪鬼たちも、政府からの自粛要請を受けて、天邪鬼だから、外…

2020/2/11:退屈な祝日

ひとり、どんよりとした気分で終えるこの一日が、自分の今後の人生にとって善にも悪にも働かない、きっと、数ヶ月もすれば記憶の端にも登らない、思い出そうとしても思い出せない類の一日になってしまうのだという予感が、布団に潜ることを躊躇わせる。 ふと…

2020/2/3:雑文

令和2年の2月。もう年が明けてから1ヶ月経った。この1ヶ月、何もしていない。何もしていないのに1ヶ月が経っていて超怖い。とか言ってるうちにまた1年終わるんだろうな。 2年も経てば、仕事にも慣れて余裕が出てきて仕事終わりに友達とかとご飯食べて…

憂き世話

「こんばんは、起きてる?」 僕たちの会話は、毎回、その言葉から始まる。それは電話だったり、SNSのメッセージ機能だったり、玄関先でだったり、状況は違えど、いつだってそうだった。アシちゃんの家だったり、駅前だったり、適当な場所で落ち合って、ふ…

憂き世話

中国地方の小さな地方都市、都市だなんて呼んでしまうのも恥ずかしいくらいのここにある国立大学には、受験に失敗してランクを下げて行き場もなくて仕方なくここを選んだという学生ばかりが多く通う。なんでこの大学を選んだの? と訊くと大抵、苦笑いを浮か…